<特別インタビュー> 対馬丸事件 生存者・照屋恒さん(86)に聞く

2026.09.03

<特別インタビュー> 対馬丸事件 生存者・照屋恒さん(86)に聞く

「当たり前の日常が、当たり前でなくなる。それが戦争です」

1944年8月22日、沖縄から長崎へ向かっていた学童疎開船「対馬丸」は、鹿児島県・悪石島沖でアメリカの潜水艦「ボーフィン号」の魚雷攻撃を受け、沈没しました。

乗船者1,788人のうち、氏名が判明しているだけで1,484人が犠牲となり、そのうち784人は疎開学童でした。

SAYEGUSA &EXPERIENCEでは、対馬丸事件を題材とした舞台を手がけた宮本亞門さんとの&E TALK 対談に先立ち、那覇市の対馬丸記念館を訪ね、生存者の照屋恒(てるやひさし)さんにお話を伺いました。

当時4歳だった照屋さんが、対馬丸について語り始めたのは70歳を過ぎてからのことだそうです。
長い間、関わることを避けてきた出来事を、今、積極的に次の世代へ伝えようとされています

対馬丸事件の背景とともに、子どもたちに伝えたいことをお聞きしました。

 

ご協力:公益財団法人対馬丸記念会、対馬丸記念館

対馬丸事件の犠牲者のための慰霊塔「小桜の塔」

70歳を過ぎて、語り始めた理由

ーー 照屋さんが対馬丸について語るようになったのは、70歳を過ぎてからだったそうですね。

照屋さん:私は対馬丸に乗り、生き残った者ではありますが、当時は4歳でした。ですから、自分がどうした、こうしたということを、体験として明確に覚えているわけではありません。親に手を引かれ、その後ろについて回るような年齢でした。

私が語り始めたのは、70歳を過ぎてからです。それまでは、対馬丸とは関わりたくないという気持ちが強くありました。自分自身に明確な記憶があるわけでもなく、何を話せばいいのかわからなかった。それに、小さい頃から対馬丸のことで嫌な思いもしてきたので、もう関わりたくないと拒んでいました。

けれども、当時小学校4年生、5年生だった先輩たちも年を取り、体を悪くする人が増えてきた。「もう語り手がいなくなる。協力してほしい」と言われ、私も70代になり、今やらなければ協力できなくなると思いました。

では、何を話せばいいのか。対馬丸が潜水艦に攻撃され、多くの学童が犠牲になったということだけでは、なぜその出来事が起きたのかわかりません。その時代の社会情勢や国の動きから話さなければいけないと思い、証言集や資料を自分で調べ、必要なものをまとめながら話すようになりました。

 

なぜ、子どもたちは疎開することになったのか

照屋さん:1944年7月、サイパン島などが陥落し、次は沖縄か台湾が戦場になると考えられるようになりました。政府は、沖縄から九州へ8万人、台湾へ2万人、合わせて10万人を疎開させる計画を決めました。

まず対象になったのが学童です。当初は、いずれ国を守る戦力となるはずの、国民学校3年生から6年生の男子が中心でしたが、なかなか希望者が集まりませんでした。海が危険であることをそれとなく知っていた親たちにとって、 子どもを安全に渡航させることができるのか、不安があったのだと思います。

また、当時は「日本は勝っている」と報道されていましたから、沖縄の人たちには、「勝っているのに、なぜ疎開しなければいけないのか」という思いもありました。

先生方は昼間、飛行場整備などの労働に動員されていましたから、夜に家庭を回って疎開を勧めました。でも、「沖縄が戦場になるから逃げなさい」とは言えない。軍から、「敗戦思想を話してはいけない」とされていたからです。

だから子どもたちには、「大和へ行けば汽車に乗れるよ。雪も見られるよ。新しい友達と一緒に勉強できるよ」と、修学旅行のような夢のある話をしたそうです。

友達が行くなら自分も行きたいと思う子もいます。親が家を空けている間に、印鑑を持ち出して自分で申し込んだ子もいたといいます。

ーー 一方で、疎開船に乗らなかった子どもたちにも、その後、沖縄戦が待っていたのですね。

照屋さん:そうです。出港の日に、「やっぱり行きたくない」と泣いたりして、船に乗らなかった子が何人もいたそうです。一見、乗らなかったから助かったように思えますが、
でも、その後10月10日の空襲で那覇の大部分が焼かれ、翌年4月には米軍が上陸し、地上戦が始まりました。その子たちが助かったかどうかは、調査されておらず、わかりません

4歳の照屋さんが乗った対馬丸

ーー 照屋さんご自身は、お母さまと7歳のお姉さまと一緒に対馬丸に乗られたのですね。

照屋さん:はい。8月21日、那覇港には、疎開する人と見送る人が大勢集まりました。学童以外にも、同伴した幼い弟妹や家族たち(老人や母親、10代の子供)が一般疎開者として乗船しました。

夕方になってようやく乗船が始まりました。当時の那覇港は浅く、大型船は岸壁に直接つけられません。小さな舟に乗って沖に停泊している対馬丸まで行き、そこから長いはしごを登りました。高くて怖かったことは覚えています。

海面から甲板までは10メートルほどあったといわれています。皆、「下を見るな。上を向いて登れ」と言われながら乗ったそうです。

私は4歳、姉は7歳で国民学校2年生でした。姉は学童疎開、母と私は一般疎開ですから、船の中では別々でした。学童疎開は船首付近、一般疎開は船尾の船倉に乗っていました。

対馬丸は古い元貨物船です。船倉には二段の棚が造られ、畳一畳に3人ほどという狭さで、手足を伸ばして眠ることもできませんでした

翌22日の夜10時過ぎ、対馬丸は悪石島沖でアメリカの潜水艦ボーフィン号から魚雷攻撃を受けました。
3発が命中したボロ船は、わずか11分で沈んだそうです。

「早く海へ飛び込め。船から離れろ(沈む時の渦に巻き込まれないように)」と言われた。私は4歳ですから、おそらくぐっすり寝ていたのでしょう。寝ぼけ眼のまま、母に手を引かれて甲板へ上がりました。

夜の海は真っ暗です。どこへ飛び込めば海なのか、いかだや救命艇にぶつかるのかもわからない。子どもがためらうと、大人が後ろから押して海へ落とした、という証言もあります。

私も大人用のぶかぶかの救命具を着けさせられ、泣きながら母と一緒に海へ飛び込み、船から離れました。

 

「お姉ちゃんを捜してくる。お前はこの手を絶対離してはいけないよ」

照屋さん:私と母は、醤油樽のようなものに十字に掛けられた縄につかまっていました。

しばらくして静かになった頃、母が私に言いました。

「お姉ちゃんを捜してくる。お前はこの手を絶対離してはいけないよ」そう言って、私を残し、姉を捜しに行きました。

それが、母との別れです。

広い暗い海のどこに姉がいるかもわからないのに、母は捜しに行った。大人になって考えると、これが母性本能なのだろうと思います。

 

記憶のない16時間

ーー 想像を絶する辛い別れですね…。漂流されていた時の記憶はあるのでしょうか。

照屋さん:いいえ。私が、近くを航行していたカツオ漁船「開洋丸」に助けられたのは、沈没から16時間ほど後だったといわれています。なかには6日間漂流した方もいます。

途中で私を助けてくれた人が大勢いたのだと思います。でも、自分には記憶がありません。だから、その方々には心の中で、「どうもありがとうございました」としか言えない。

記憶として飛んでいるというより、本当にわからないんです。その記憶はないけれど、私は泳ぐことが出来ません。
大人になってからはキャンプが好きで、ある時、海岸にテントを張ったことがありました。すると、夜中に波の音がザザ〜んと大きく聞こえきて、足を海へ引っ張られるような錯覚をおこしてしまいとても怖かった。トラウマというものだと思います。

ーー 記憶としては残っていなくても、心の深いところに残っているのかもしれないですね。

照屋さん:救命いかだは5、6人乗りでも、実際にはもっと大勢がしがみついていたといいます。さらに泳いできた人がつかまろうとすると、「これ以上は乗れない」と足で蹴られることもあったそうです。

極限状態では、人間が残酷にならざるを得ない場面があります。

学童疎開船「対馬丸」
対馬丸は「軍艦」でなく、建造から30年もたった老朽貨物船だった

助かったあとも、戦争は続いた

ーー 海で救助されたあと、照屋さんはどうされたのでしょうか。

照屋:鹿児島へ着けば、「助かってよかった」となると思うでしょう。でも、港で待っていたのは憲兵でした。助かった人たちは、「対馬丸が沈んだことを絶対に口外してはいけない」と言われました。箝口令です。

沖縄を出るときには、家族から「着いたら無事に着いたと連絡しなさい」と言われています。でも、連絡することもできない。助かっても、家族へ知らせられない苦しみがありました。

私は4歳で、一緒にいる身内もいませんでした。鹿児島県庁の人が「この子には身寄りがいない。誰か面倒を見てくれないか」と呼びかけてくれたそうです。

その後、私が鹿児島にいるという情報が伝わり、大阪で軍需工場に勤めていた叔父が迎えに来てくれました。しばらく世話になった後、いろいろあって宮崎へ移りました。

宮崎では、多くの子どもたちと一緒に暮らしました。皆が学校へ行ったあと、釜に残ったご飯のお焦げを食べたことがあります。それを見た子から「お前だけ食べたな」と責められました。皆が空腹だったから仕方がないのですが、そういう思い出も残っています。

戦争は、船が沈んだ瞬間だけではありません。命が助かったあとも、子どもたちは空腹や沖縄人差別、孤独など、たくさんのつらい思いをしました

 

「対馬丸で助かった子」と呼ばれることが嫌だった

照屋:戦後、7歳で、祖父母のいる沖縄へ戻りました。

親戚や知り合いと道で会うと、「この子が対馬丸で助かった子だよ」と、しょっちゅう言われました。
悲劇のヒーロー扱い、それが嫌でたまりませんでした。

その後も、生存者と救助者の交流会などが新聞に載り、「あの時の子はどうなったか」という記事が出る。読めば自分のことだとわかる。でも「それは私です」とは名乗りませんでした。とにかく嫌だった。

それでも70歳を過ぎ、語れる人が少なくなってきたときに、今協力しなければ語り継ぐことができなくなると思い、ようやく話すようになりました。

 

「当たり前の日常が、当たり前でなくなる。それが戦争です」

ーー 今、子どもたちにお話をするとき、いちばん伝えたいことは何でしょうか。

照屋:私は子どもたちにお話をするとき、

「当たり前の日常が、当たり前でなくなる。それが戦争です」 と伝えます。

学校へ行ける。毎日を普通に過ごせる。それがどれほど大切なことなのか。その日常が続くように考えてほしいんです。

歴史の記憶には80年ほどの区切りがある、という話を聞いたことがあります。日本でも、戦争を実際に体験した人がどんどん少なくなっています。

それから、私は話をするとき、皆さんに「どこの出身ですか」と聞きます。

日本のどの地域でも、対馬丸ほど大きな事件ではなくても、戦争による被害や出来事はどこかにあるはずです。東京にも空襲がありました。自分の地域は戦争とまったく関係がない、という人はほとんどいないと思います。

まず、自分の住んでいる地域で何が起きたのかを調べてみる。そこから「戦争は絶対にだめだ」という思いにつながるのではないでしょうか。

「対馬丸」を撃沈した潜水艦「ボーフィン号」
真珠湾攻撃への復讐を果たした英雄として
ハワイ真珠湾のボーフィン記念公園内に実物が展示されている

「立ち位置が違えば、見え方も変わります」

(後半は、照屋さんに案内していただきながら、対馬丸記念館の展示を見て回りました。)

照屋:(写真を見せながら)これが、対馬丸を撃沈した潜水艦ボーフィンです。
今はハワイに展示され、「真珠湾の復讐者」と呼ばれています。沈めた船のリストも掲示されています。

ーー 多くの人を乗せた船を撃沈した潜水艦が、もう一方では「復讐を遂げた船」として語られているのですね…。

照屋:立ち位置が違えば、見え方も変わります

 

数字だけでは伝わらないこと

照屋:ここは、母と一緒に寝ていた船倉に近い状態を再現しています。畳一畳に3人ほど。手足を伸ばして眠れず、座るような状態でした。

ーー 子どもたちに伝えるために、展示にも工夫がされているのですね。

照屋:この紙の人形は、平和学習で小学生につくってもらったものです。

「疎開者が1,661人いた」と数字だけ言っても、子どもにはなかなかわかりません。そこで、1年生から6年生まで、一人ひとり紙の人形をつくって、全部並べました

そうすると、「こんなにたくさん乗っていたの」と、目で見てわかるんです。

 

子どもの年齢に応じて、どう伝えるか

―― 私たちも小学生を対象にしたプログラムを考えています。子どもたちに伝えるとき、年齢によって伝え方を変えていらっしゃいますか。

照屋:私が小学校で話すときには、上級生と下級生を分けることもあります。1年生から6年生では、理解の仕方が違いますから。低学年には、死ということがまだよくわからない子もいます。だからゲームの話をします。

ゲームでは、倒されてもリセットすれば最初からできます。でも本当の命は、死んだら生き返らないんだよ」と。戦争では、「自分が殺さなければ、自分が殺される」という状況に追い込まれます。それが戦争です。

 

「想像してみてください」と言わなくなった理由

照屋:以前は、苦しかったことを話したあとに、「想像してみてください」と伝えていました。でも今は、その言葉をあまり使いません。想像は、人によって違うからです。

人は、自分が体験した中で一番厳しかったことを超えて想像するのが難しい
だから、「想像してください」という言葉だけで終わらせるのでは伝わらないと思うようになりました。

一方で、原爆資料館でも、子どもが展示を見ようとすると、「トラウマなるから見るな」と止める親がいると聞きます。子どもに教える前に、親の方が受け止められなくなっているんですね。

ーー 親御さん自身が、そうしたことを学ぶ機会をあまり持たずに大人になった場合、子どもに何を、どのように見せればいいのかわからず、慎重になることもあるのかもしれませんね。

 

今いる場所から、当時を想像する

ーー 記念館や史跡を訪れるとき、私たちはどんなことを意識して見るとよいでしょうか。

照屋:若い人に話すときには、史跡へ行くまでの行程についても話します。

今は車に乗って、整備された道を通り、現地で降りて見学して、また安全に帰ります。

でも当時の沖縄では、戦争から逃げるために、泥だらけ、瓦礫だらけの道を、子どもの手を引き、荷物を背負って歩きました。上空から機銃掃射を受けながら避難した

今、安全に整備された場所から「ああ、そうだったのか」と眺めるだけでは、その違いを見落とします
そのことも考えながら見てほしいと伝えています。

ーー「命は大切」という言葉だけで終わらせないためにも、このような場所に一度は身を置き、具体的に知ることが大切なのだと思います。本日は貴重なお話をお聞かせくださり、本当にありがとうございました。



照屋さんから伺った言葉を胸に、この日の午後、私たちは宮本亞門さんとの対談に臨みました。
演劇という体験を通して、子どもたちに命と平和をどう伝えていくのか。
対話は、宮本亞門さんとの&E TALKへと続きます。

 

 

右写真の赤枠の中は、対馬丸事件の犠牲者となった
照屋さんの母シゲさん(当時30歳)と姉の美津子さん(当時7歳)

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