
2026.09.01
<対談> 演出家・宮本亞門さん
82年前の1944年8月22日、沖縄から本土へ向かう途中、多くの子どもたちの命が奪われた学童疎開船「対馬丸」。
その悲劇と、生存者である故・平良啓子さんの体験を基に、宮本亞門さんが企画・演出・脚本を手がけた舞台『生きているから 〜対馬丸ものがたり〜』が、2025年8月に那覇市で初演されました。
大きな反響を受け、2027年8月28日・29日には、東京・新国立劇場 中劇場での再演が予定されています。
SAYEGUSA &EXPERIENCEでは、この東京公演に向けて、舞台を観ることに加え、子どもたちが感じたことを言葉や身体で表現し、親子でともに考える体験へとつなげるプログラムを構想しています。
今回、なぜ今、子どもたちと戦争や平和について考える体験が必要なのか。その意味を亞門さんとの対話を通してあらためて見つめ、&E会員の皆さまにもお届けしたいと、那覇市の対馬丸記念館でお話を伺いました。
幼い頃から、人間の表と裏、生と死に強く惹かれてきたという亞門さん。母との別れ、自身の子ども時代、そして演出家として歩んできた時間を振り返りながら、なぜ今、戦争や平和を舞台で伝えようとしているのかを語ってくださいました。
戦争の記憶を、子どもたちにどう伝えていくのか。
「想像する」とはどういうことなのか。
そして、演劇だからこそできることとは——。答えを教えるのではなく、一人ひとりが感じ、自分の頭で考えるための体験について、じっくりとお話を伺いました。
三枝 亮:昨日はひめゆり平和祈念資料館と沖縄県平和祈念資料館を訪れ、今日の午前中は、ここ対馬丸記念館で、生存者の照屋恒さんからお話を伺いました(特別インタビューはこちら)。
今回、沖縄戦や対馬丸事件について初めて細かなところまで知り、ほんの80年ほど前の出来事なのだと改めて実感しました。僕の両親が、すでに生きていた時代なんですよね。
宮本 亞門さん(以下、敬称略):そうなんです。サイパンなどにも多くの日本人が渡っていましたが、それもまだ80年前の話です。
三枝:多くの方が亡くなった場所のすぐ近くに、今は美しいビーチがあり、人々が楽しんでいる。そのことが悪いわけではありませんが、あまりの落差に、まだ自分の中で整理しきれないものがあります。
亞門:沖縄戦では、県民の4分の1が亡くなりましたからね。
三枝:今日は、命や平和、演劇への思い、そして演劇と子どもの体験がどうつながるのかを伺いたいと思います。企画編集を担当する事務局長の澁江も加わります。
澁江:よろしくお願いいたします。まず、亞門さんが命や平和というテーマに向き合うようになった背景から、教えてください。
亞門:僕は、両親が営んでいた新橋演舞場前の喫茶店で、カウンターの中のお客様から見えないところでお手伝いをしているような子どもでした。それに演舞場前ということもあり、舞台を無料で観る機会も多かったのですが、興味を持ったのは、むしろ舞台の裏側でした。
表では、役者さんたちが神々しく光るような演技をしている。でも裏では、自信をなくしたり、問題が起きたりする。その両方を見て、「人間ってなんて面白いんだろう」と思っていました。
母が店でよく俳優やスタッフたちに人生相談を受けていたこともあり、表に見えている人間と、その裏にあるものに興味を持つようになりました。それが、演出家になったことにもつながっていると思います。
母自身は病弱でしたが、いつも人に勇気を与える人でした。お客さまの注文が、コーヒー一杯でも「ありがとうございます」「今日も元気でいってらっしゃい」「お芝居、絶対楽しいわよ」と声をかける。昭和の気っ風のいい女性で、僕はそんな母に憧れていました。
その母が、僕が21才の時、演出家修行として出演する舞台の初日の朝に亡くなりました。母は初日の切符も買ってくれていたのですが、初日前夜、僕が渋谷のパルコ劇場から新富町の家へ帰ると、母が風呂場で僕の洗濯をしていて倒れていて、それから数時間後に亡くなりました。
そこから、「なぜ人は死ぬのだろう。なぜ生きているのだろう。自分はどう生きればいいのだろう」と、ずっと考えるようになりました。その問いは、やがて自殺願望にまでつながっていきました。母があまりにも力強く生き切ったように見えて、逆に自分には価値がないように感じてしまったからです。
母は松竹歌劇団のレヴューガールで、舞台のエンターテインメントに真剣に取り組んできた人でした。しかし家族全員を病気で亡くし、唯一の生きがいは、お客さまに感動していただくことだと言っていました。
でも生き残った僕は、まだ舞台を通して何を伝えたいのか分からず、辛い20代を送りました。
その後も、交通事故で死にかけるなど、いろいろなことがありましたが、生と死、なぜ人間は争い、戦争をするのか。見たくない現実も知った上で、自分は何をつくり、どう生きるのか。今もその問いを繰り返しています。
三枝:見たくないものまで見るには、かなりの勇気が必要ですよね。
亞門:母が亡くなる一年くらい前、母は家族がいる前で「もし私が死んだら」という話にを切り出したことがあります。最初は冗談半分で「みんな泣くわね」と笑顔で言っていたのですが、僕には真顔で「お前は泣いちゃだめ」と言ったんです。僕が演出家になりたいと気づいていたのでしょうね。
「お前は絶対目を閉じてはダメ、全部見なさい。どんなにつらいことも、目を開いて見なさい。それが、いい舞台人になる秘訣よ」。僕はその言葉に、恐怖さえ覚えました。
そして一年後、母が病院へ運ばれたときも、息を引き取ったときも、お葬式のときも、僕は絶対泣きませんでした。母の言うとおり感情に流されず、全て見よう、全て見て人間というものを探りたいと。
三枝:人間の表と裏、生と死への関心が、対馬丸事件を扱った舞台にもつながっているのですね。
亞門:そうですね。やはり対馬丸事件の話も「なぜ生きているのか」という問いです。
亞門:沖縄で、地上戦が行われた場所に立ち、詩や手紙、米兵の言葉などを読み続けていると、なぜか同時に、この自然の美しい地球の中、今もこうして生きていることが どれほど奇跡なのかを感じるんです。
母が亡くなった朝も、病院からものすごく美しい朝日が見えました。母が亡くなったのだから、空は曇るか雨になるものだと、僕は勝手に思い込んでいた。でも、それは誰が見てもあまりにも美しい朝だった。「僕の母が亡くなろうと、生きると言うことは、誰にとっても、生と死が循環する地球という 美しい惑星で生きると言うことなんだ」と思いました。
戦時中の沖縄も同じです。こんなに美しい青い海が広がっているのに、戦争が始まれば、人が人を平気で殺す恐怖に覆われた場所へと変化し、物事は一瞬で反転してしまうんです。
だからこそ、人間は同じ過ちを繰り返さないためにも、自分の意思や価値観を持ち続けなければならないのだと思います。なので僕は、自分が生きているうちに少しでも、夢を見ることの大切さを伝えたいと思いました。
対馬丸に乗った子どもたちにも夢がありました。本土へ行けば雪が見られる、富士山が見れる、電車に乗れると喜んでいた子どもたちが、アメリカの魚雷で命を奪われてしまったのです。その一方で、対馬丸を撃沈した潜水艦は、今もアメリカでは功績を残したヒーローとして展示されています。
三枝:午前中にお話を伺った照屋さんから、その潜水艦が真珠湾に展示されている写真を見せていただきました。同じ出来事でも、立場によってこれほど捉え方が違うのかと、衝撃を受けました。
三枝:照屋さんがおっしゃっていたのですが、人が記憶を失っていく時間軸の一つが80年だそうです。今、対馬丸事件を実体験として語れる方は、照屋さんを含めてわずかしかいない。その方々がいなくなったとき、記憶が薄れ、また同じことを繰り返すのではないかと心配されていました。
沖縄には、多くの資料館や記念館があります。一方で、戦争の生々しい記録を子どもに見せることをためらう親御さんもいます。
でも、教科書で知るだけでは、なぜ戦争を繰り返してはいけないのかまで、子どもの中に残りにくいのではないか。だからこそ、民間にできる方法で、平和の大切さに自分から気づくような体験をつくれないかと考えています。
学童疎開船「対馬丸」を撃沈した潜水艦「ボーフィン号」展示の様子
澁江:子どもたちには、美しいことや楽しいことをたくさん体験してほしい。でも、それだけでなく、世の中の両面にも触れてほしいと思っています。
もちろん、年齢やお子さんの感受性、ご家庭の考え方もありますから、慎重さは必要です。それでも、亞門さんの演劇という方法なら、私たちが考えてきた「体験」とつながるのではないでしょうか。
亞門:演劇には、身体があり、そこに生の命が存在します。
今は、映像や強い刺激が次々と入ってくる時代です。戦争でも、AIが標的を決め、ドローンが攻撃する。その映像がニュースで流れ、まるでゲームの画面のように見えることさえあります。そして悲しいかな、そこにどんな人がいて、どんな人生を生きてきたのかが見えなくなっていく。それは人間性を失う、とても危険なことだと思います。
その意味で、舞台はとても古典的です。でも、何もない場所で「これは船です」と言えば船になる。「ここに森があります」と言えば、観客の頭の中に森が立ち上がる。
生と死の生々しさも、見る方の想像力と重なって広がれば、舞台で発せられた言葉一つ一つが、深く心に沁み入ってくると思うんです。
それに舞台は、スイッチ一つで早送りできません。上演時間が二時間なら二時間、その世界に集中して見ていただきます。すると最初は退屈かな、と思っていたのが、何もない空間から次々と世界が立ち上がっていく。それは今、とても貴重で大切な、素晴らしい体験だと思うのです。
亞門:対馬丸については、僕も大和人(やまとんちゅ)つまり沖縄への移住者ですから、沖縄戦のことは当事者の方が扱うべきで、自分が触れてはいけないと思っていました。
しかし、平良啓子さんと、現在の館長である娘さんにお会いしてしまったのです。
始めは対馬丸記念館で、生存者(当時8歳)である平良啓子さんと「対談してください」と言われたのです。ですが、僕はお断りました。生々しい実体験をどう聞けばいいのかわからないし、失礼があったらいけないと思ったからです。
それでも「聞きに来るだけでも」と言っていただき、平良さん親子の対談を拝見しました。そこで知ったのは、船が沈む恐ろしさ以上に、その後、生き残った人たちが乗ったいかだの中で起きたことや、戦争という絶体絶命の中での、生々しい人間の有様です。
どんなに優しい人でも、極限状態では別の姿を見せる。そこに、人間の本質が見え隠れしました。
それに対談のあと、平良啓子さんは、僕に近寄ってじっと目を見て「亞門さん、今日来てくれてありがとうね。あなた、これからよろしくね」と言ったこと。正直、僕はおののきました。何を「よろしく」なのか、わからなかったし、自分には何もできないと思っていたからです。でも、その目の強かったこと。正にあらゆるものに目を閉じず、しっかり見てきた神々しい瞳でした。
残念ながら翌年、平良さんが亡くなりました。それで、思い切って舞台をつくろうと決めたんです。館長にも相談し、当時を知る方々にも取材しました。
本来、舞台は二年ほど前から準備するものです。でも、戦後80年に間に合わせなければ、次の90年を迎える頃には、生存者がいなくなってしまうかもしれない。大和人だからと遠慮していたら、語ってくれる人が誰もいなくなる。そう思って、短期間で一気に進めました。
亞門:沖縄の中にも、「悲惨な話はもういい」という若い人はいます。誰だって楽しく生きたいし、暗い話には耳を塞ぎたくなります。「これ以上、沖縄戦の話は聞きたくない」と思う人もいる一方で「沖縄も抑止力のために防衛を強化した方が」と主張する政治家もいます。こちらが防衛を強化するほど、相手は戦力を高め攻撃力を増やすと言うのに。だからこそ僕は今、平和について伝えることが必要だと思うのです。
2025年には、新国立劇場のオペラパレスで、ガザ地区の子どもたちへの募金を目的にガラ・コンサートを企画・演出しました。渡辺謙さんや氷川きよしさんをはじめ、多くの方が賛同して出演してくださいました。
ところが主催のテレビ局から、「戦後80年」という言葉を外してほしいと言われたんです。戦争反対という切り口では関われない、と。結果として宣伝からは外されましたが、僕は舞台上で、このコンサートの本来の目的を話しました。
メディアや企業が「戦争反対」とストレートに言うことさえ恐れる。そんな時代になっていると感じます。
沖縄の学校でも、「偏りなく中立的に平和教育を」と求められることがあるそうです。「中立」と言えば聞こえはいい。でも、実際に起きたことを伝えるだけでも、「どちら側なのか」とレッテルを貼られてしまう。先生たちが「これは中立ではないと言われないか」「親から苦情が来ないか」と心配する。かなり深刻な状況だと思います。
澁江:平和を願うことまで、政治的な立場の違いとして受け取られてしまう。そのことには、私も危機感を覚えます。
亞門:対馬丸事件の話は、「学童約800人を含む1661人の乗船者のうち、生き残ったのはたった159人だった」という数字で語られがちです。もちろん数字は大切です。でも、本当に伝えたいのは、犠牲者が多いか少ないかではありません。
一人ひとりに命があり、物語があり、家族がいて、育まれてきた時間がある。それを伝えることが、僕が舞台や物語をつくる目的です。
「一人ひとりが人生を生きていた。でも突然、命を奪われた。あなたはどう思いますか?」と聞きたい。答えを押しつけるのではなく、子どもたち自身の感性で考えて判断してほしいんです。
対馬丸の舞台を観た若い子たちが、作文を書いたり、新聞をつくったり、「もっと広めたい」と動き始めています。物語ですから、人物を加えるなど創作した部分もあります。それでも舞台を観て、「未来に希望を持とう」「自分たちが生きていく」「絶対に平和にするんだ」と感じてくれる人たちがいる。
生の舞台を身体で受け止めたことが、若い人たちの行動につながった。それは本当にうれしかったです。
三枝:子どもたちが、知っただけでは終わらず、自分から動き始めたことに、大きな意味がありますね。
澁江:今のお話を伺っても、「子どもにはまだ早い」と大人が勝手に判断してはいけないと感じます。私たちもプログラムを続ける中で、子どもたちは、こちらが思っている以上に多くのことを体験から受け取っていると感じています。
三枝:そのことを強く感じたのが、以前、養老孟司先生と行った、ただ森に入って昆虫を探すプログラムです。養老先生は虫を前にすると完全にマイウェイです(笑)。でも、その姿を見ている親も子どもも、何かを感じるんです。
僕たちは、答えのあるプログラムをつくりたいわけではありません。ナビゲーターと同じ時間を過ごし、その人の生き方や人柄、その場の空気に触れる中で、子どもも親もそれぞれに何かを感じる。そこを大切にしたいと思っています。
三枝:学校や家庭だけでは、どうしても扱いきれないこともあります。以前は、地域の大人が働く姿を見たり、祖父母や近所の人と自然に関わったりする機会が、今より身近にありました。
SNSでつながることも必要ですが、近所の大人と話し、何かを教わったり、ときには叱られたりするような、生身の関係も大切です。僕たちは、そうした時間も体験の中につくっていきたいと思っています。
亞門:沖縄には、まだ少しそういうものが残っています。昭和30年代の日本のような。
三枝:今の時代だからこそ、そうした関係を大切に受け継いでいくことにも意味があると思います。
右は、対馬丸事件の生存者で対馬丸記念会理事・高良政勝さん(86)
澁江:戦争や平和のようなテーマでは、子どもに何を、どこまで伝えるかは慎重に考える必要があります。そのうえで、子どもの中に生まれる「なぜ?」や、正解のない考えも大切にしたい。
亞門さんと&Eでプログラムをつくるとしたら、どのような形が考えられるでしょうか。
亞門:僕の子ども向けのワークショップでは、いきなり戦争や平和の話をするより、『赤ずきん』のような、皆が知っている物語から始めることがあります。
例えば、黒板に赤ずきん、おばあちゃん、狼、お母さんと書く。そして、「狼にも兄弟がいたかもしれない」「お父さんやお母さんがいたかもしれない」と、物語に書かれていない背景を想像していくんです。
「誰に興味がある?」と聞くと、子どもたちの答えはばらばらです。あるグループはお母さんに注目して、「こんな怖い森へ娘を一人で行かせるなんてひどい」「近所の奥さんとお茶を飲んでいたんじゃないか」と話し始めました。
一番盛り上がったのは狼です。「家族が貧しくて、食べるものがなかったのでは」と考え始め、最後には皆が狼のファンになって、「問題はお母さんだ」という話にまでなりました。
物語の一部分だけを見れば、狼は悪者です。でも、その周囲を想像すると、別の背景が見えてくる。書かれていないところを想像するのは、演劇づくりと同じです。
戦争でも、銃を持つ兵士を見て、「なぜ持っているのだろう」「自分で望んだのか」「誰かに持たされたのか」と考えてみる。悪者と決める前に、その人の背後を見る。演劇は、物事を白か黒かだけで捉えないための方法にもなります。
短いワークショップでも、一つの物語を違う方向から見る経験は、その後、日常の出来事を多面的に見ることにつながるかもしれません。
三枝:それは、ぜひやってみたいですね。
澁江:午前中にお話を伺った照屋さんは、以前はご自身の体験を語ったあとに、「想像してみてください」と伝えていたそうです。でも、あるとき、人が想像できることには、その人自身の経験による限界があると気づき、それからはその言葉を使わなくなったとおっしゃっていました。
戦争の痛みや恐怖を実際に経験していない子どもに「想像して」と言っても、想像できるのは自分が知っている範囲までかもしれない。だから、平和を伝えるときに「想像してみてください」という言葉だけで終わってはいけない、と。
亞門:そうなんです。だからこそ、ただ「想像して」と言うだけではなく、想像するための具体的な手がかりをきちんと伝えることが必要だと思います。
また、トラウマになるからと、写真や生々しい言葉をすべて省いてしまえば、想像できる範囲も狭くなってしまう。
例えば壕の中で、ウジが湧き、髪を抜くと皮膚まで一緒に剝がれる。そういう細部があるからこそ、人はその場で何が起きていたのかを想像できます。でも、今のAIによる戦争では、まるでドローンがシューティングゲームのように「〇〇人の人が今日は亡くなりました」と数字だけを伝えても、それを知る人間は何も心が動かず、亡くなった一人ひとりがどんな生活をして、自分たちと同じように暮らし、どれほど、その時、恐ろしい体験をしたかが想像できなくなるのです。
証言やディテールを伝えることは、想像するための大切な手がかりになると思います。
澁江:そこに演劇が入ることで、一度その人物になってみたり、その人が周囲からどう見えているのかを考えたりできる。自分が同じ経験をしていなくても、想像する範囲を広げられるのではないかと思いました。
対馬丸の舞台でも、台詞を覚えて演じているというより、子どもたち自身がその人物の気持ちに入り込みながら言葉を発していることが、よく伝わってきました。
「生き残ったことが申し訳ない」と話すおばあちゃんに、男の子が「そんなことないよ」と訴える場面も、本当に自分自身の言葉のように聞こえました。最後に、子どもたちが力いっぱい踊り、平和を願って歌う場面にも、とても心を動かされました。
亞門:映像として見るだけではなく、自分の身体を通して聞き、感じたことを自分の中に入れて、それを声として発する。そこまで感情移入するからこそ、観客も一緒にその感情へ引き込まれていくんです。そこが、生の演劇の大きな力だと思います。
三枝:演劇のワークショップで、子どもたちから思いや感情を引き出すのは難しくありませんか。
亞門:僕は、子どもたちは大人より想像力が豊かだと思っています。もちろん、一人ひとりペースは違いますが。
NHKの『課外授業 ようこそ先輩』で母校の授業をしたとき、先生から「あの子たちには当てない方がいいです。変なことを言うので」と言われた子たちがいました。
でも、僕が話していると表情がどんどん動くんです。実際に聞いてみると、少し変わったことを言う。でも、それがものすごく面白かった。
僕が「面白い!」と言うと、周りの子たちは驚いた顔をする。それで「どうして?」「どうしてそう思ったの?」とどんどん聞いていくと、さらに魅力的なことを話し始めました。最後には、僕が帰ろうとすると「離れたくない」と手を握ってくれました。
澁江:大人が先に「扱いにくい子」と決めてしまうと、その見方を周りの子どもたちも受け取ってしまう。それが寂しいですね。
亞門:そうです。でも、新しい場所を切り開いてきた人は、みんな変人なんですよ。だから「こんなこともあり得るかもしれない」と考えられたんです。それなのに、周りに合わせて「変なことを言ったら終わる」と、自分に蓋をしてしまうのはもったいない。
学校も、「あなたはどう思う?」「いろいろな意見を聞いてみよう」と、それぞれの発想を面白がる場所になればいい。「これが正しい」と決めるのではなく、「なるほど」と皆で喜べたら、もっと面白いものが生まれると思います。
三枝:皆、子どもの頃にはいろいろな可能性を持っている。その発想を抑え込まずに育てられたらいいですね。
舞台『生きているから〜対馬丸ものがたり〜』より
澁江:亞門さんご自身は、どんなお子さんだったのでしょうか。
亞門:僕も「すごく変わっている」と言われていました。親からは、優しくていつもニコニコしていて、文句を言わない子だったと聞いています。ただ、集団は苦手で、人が集まるといつも親の後ろに隠れて覗いていたそうです。遠慮がちで、恥ずかしがり屋だったんでしょうね。
小学校のとき、「好きな物語の絵を描きなさい」という課題がありました。僕は絵を描くのが好きで、そこで描いたのが『楢山節考』です。
息子が年老いた母親を背負って、山へ捨てに行く場面を描きました。そうしたら学校から親が呼び出されて、「あんな絵を描くとは、問題があります」と言われたんです。
でも僕は、その物語にすごく感動して泣いたんですよ。親子の関係や、おばあちゃんも息子もお互いを思っていることに心を動かされて、その場面を描いただけなんです。でも大人から見ると、「この子は大丈夫だろうか」となってしまう。僕は今でも素晴らしい絵だと思っていますが。
小学校の卒業アルバムには、将来の夢として「お茶のお家元」と書きました。周りは野球選手やパイロットなのに。中学生になると仏像が大好きで、京都や奈良へ行くのが好きでした。
澁江:小学生で『楢山節考』を描いて、将来の夢は「お茶のお家元」。なかなか渋いですね(笑)。
でも、周囲から「変わっている」と言われることを、当時の亞門さん自身はどのように受け止めていたのでしょうか。
亞門:その時代には「だめ」と刻印を押され続け、自分の存在を全面否定していました。それが、引きこもることにもつながりました。
高校二年のとき、一年間、学校へ行かなくなりました。「この学校の授業は変だ。なぜこんなことを学ばなければいけないんだ」と思っていました。
三枝:自分の感覚と学校の価値観が合わない。でも、まだ若くて自分にも自信がないから、「おかしいのは自分の方なのではないか」と思ってしまいますよね。
亞門:「自分はおかしくない」と思えたというより、「おかしいけれど、別にいいや」と思えるようになったのは、演出家になってからかもしれません。
演出の仕事では、人と同じ発想をそのまま出しても面白くないんです。「普通はこう考える」とわかっているからこそ、逆転を考える。「こんなふうにも考えられない?」と言うと、最初は皆が「えっ」と驚く。でも、やがて面白がって乗ってくる。
人と違う発想が仕事になる。とても幸せな仕事だと思います。
亞門:その引きこもっていた一年間、家にあった十枚ほどのレコードを、何度も何度も聴きました。一枚は井上陽水さんの『氷の世界』で、あとはミュージカルやクラシックでした。
音楽を聴いていると、どんどんイメージが膨らんで、頭の中に花火が上がり、戦争が起こり、リズムが映像になっていく。ワーグナーを聴きながら、ベッドの上でジャンプして踊っていました。
十枚しかないから、何度も聴いて想像するしかない。その一年間が、クリエイティブだったのかもしれません。その頃から、映画監督か演出家のような、表現する仕事をしたいと思うようになりました。
父は、「息子はいよいよおかしくなった」と心配したのでしょう。その後、精神科へ連れて行かれました。慶應病院の看板を見て、父は「よかったな、慶應に入れたぞ」と言っていました(笑)。
でも、そこでとてもいい先生に出会いました。僕の話を「面白いね」「いいんじゃないの」「そういう発想があるんだ」と、ニコニコしながら全部認めてくれる。僕は通うのが楽しくなりました。
先生が僕の話を引き出すのも上手だったんでしょうね。最後にはインターンの先生たちを前に、「皆さん、質問してください」と言われて、僕はすっかり得意になって話していました(笑)。
学校へ戻るときも、「つらくなったらすぐ帰ってきていい」と言われました。それで少し安心して、行ったり休んだりしているうちに、学校へ行ってみたら、誰も僕のことなど考えていなかった。皆、自分のことで精いっぱいなんだとわかったら、楽になりました。そこから復学しました。
三枝:今日は長い時間、本当にありがとうございました。来年の夏には、東京で「対馬丸物語」の公演を予定されているとお聞きしました。
亞門:はい。その機会に、今回開催を見送ったプログラムも、改めてご一緒できるといいですね。
澁江:公演を観ることと、子どもたち自身が感じたことを、言葉や身体で表現する体験を組み合わせてもいいかもしれません。
&Eでは、保護者も子どもの付き添いではなく、同じ体験者だと考えています。お家へ帰ってからも、「あの場面をどう感じた?」「自分はこう思った」と、家族で話が続いていってほしいと思っています。
亞門:それはいいことですね。正直、今は親が学ばなければならない時代だと思いますよ。
三枝:戦争や平和というテーマでは、親自身も、子どもに何をどう伝えればいいのかわからず、触れることをためらってしまうことがありますよね。私たちのプログラムはいい機会になりますね。
亞門:子どもの頃から見せればいいんです。大人になって考え方が固まってから初めて見るから、受け止められなくなる。最初の一歩は難しいかもしれません。でも、親子で同じものを見て、それぞれに感じたことを話してみる。そこから見えてくるものがあると思います。
三枝:来年8月の東京公演に合わせて、今回できなかった体験プログラムを、ぜひ形にしたいです。
亞門:ぜひ。赤ずきんのようなワークショップもできますし。
宮本 亞門(Amon Miyamoto) / 演出家
演出家。1958 年東京・銀座生まれ。子供の頃から、歌舞伎・新派・新国劇に親しむ。高校時代から演出家を志し、大学中退後ダンサーとなりロンドン・ニューヨークに2年間留学。1987年、『アイ・ガット・マーマン』で演出家デビューし、芸術祭賞を受賞。2004 年には東洋人初の演出家としてオンブロードウェイにて 『太平洋序曲』を上演し、同作はトニー賞4部門にノミネート。ミュージカル、ストレートプレイ、 オペラ、歌舞伎などジャンルを問わず幅広く作品を手掛ける。2022 年には、映画『ベストキッド』を ミュージカル化した『カラテキッド』をセントルイスで世界初演した。近著『上を向いて生きる』(幻冬舎)。 テレビドラマ初出演としてNHK朝ドラ「ブギウギ」に作詞家の藤村役を演じる。2026年5月イギリスツアーでミュージカル『カラテキッド』(ウィンブルドン発、11都市)を上演。26年7月、台湾でソンドハイムのミュージカル『カンパニー』 (台中国家歌劇院)を上演。今後の予定として27年1月東京二期会と、プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』を上演予定。2027年8月28日・29日東京・新国立劇場 中劇場での『生きているから 〜対馬丸ものがたり〜』再演を発表。